盛岡から来た植物採集家

盛岡から来た植物採集家

植物採集家の須川長之助が、書記の斉藤松太郎を伴い名古屋を出発したのは明治二十二年四月二十二日の早朝でした。それから一週間目に湯の山にたどり ついた長之助は旅館の杉屋に宿泊し、ここを拠点にして御在所岳をはじめ、鎌ヶ岳付近の植物採集を行いました。菰野山での採集植物はコメツツジ、イヌシダ、 ミネカエデなどをはじめ多くの種類に及んでいます。

長之助の採集手帳には、一種類ごとに番号がつけられ、場所、月日、環境、大きさ、形態その日の晴雨等が詳しく記されています。

採集行の持ち物は、護身用の脇差一振、望遠鏡、脚絆、鞄、薬籠(救急薬入れ)、採集鏝、雑費控、採集手控、挟紙、採集標本などで、このほか手鋏、矢立、鉄板などの道具も携行していました。

長之助は、菰野山に四月三十日から十日間滞在し、杉屋の主人勇三郎の案内で高山植物の豊富な湯の山付近を踏査しました。

この長之助は岩手県の人で、天保十三年、紫波郡松本村の農業、与四郎の長男として生まれ、十二歳のとき北海道に渡り、文久元年、ロシアから渡米して きた植物学者マクシモービッチ氏の従者として雇われ、函館山、駒ヶ岳で植物採集の手ほどきを受け、その後も九州阿蘇山付近をはじめ、各地の採集に同行しま した。

元治元年、マクシモービッチ氏がロシアへ帰国したあとはニコライ大使教に仕え、その指示を受けて信州、甲州、富士箱根付近で植物採集を行いました。

明治二十四年、恩師のマクシモービッチ氏が亡くなったことを聞いた長之助は、その悲しみから以後採取を止めて農業に専念しました。

明治三十四年になって、植物学者の牧野富太郎博士は、長之助が立山で採集した高山植物に、チョウノスケソウの学名をつけ、彼の業績を認めています。

大正十四年、長之助は岩手県下松本村の自宅で八十四歳の天寿を全うしました。