蒼滝橋を架けた定五郎

蒼滝橋を架けた定五郎

大正の終わりごろのことです。湯の山の旅館寿亭に、ふろ番をしていた男で定五郎という人がいました。定五郎はどこからともなくぶらりとやってきたところを旅館のあるじ、春太郎に拾われ、ふろ番に雇い入れられたのでした。

この男はなりふりを構わずいつも粗末なものを着て、すすけたほおかむりをしていたので、初めは周りの人もいくぶんさげすむようでした。そんなことも定五郎はいっこうに気にもかけず、ふろたき、庭掃除の仕事に黙々とはげみました。そのうえ定五郎は心根もいたって穏やかでやさしく、ふろ場でお客の背中を流して喜ばれ、忙しいときは膳を運ぶ手伝いもしました。ときには座敷へ出て上手にお客の相手をつとめることもありました。

どんな仕事でもいとわず心よくするので湯の山の人からも愛され「定やん、ちょっと頼まれておくれ」といわれては、家のドブさらえ、便所のくみ取りなど、なんでも気やすく引き受けてやりました。

正直いちずに陰、日なたなく働く定五郎を、あるじの春太郎夫妻が目をかけてかわいがりました。また、大番頭の伝之丞も、その下で働く男衆、女子衆にことあるごとに、「定五郎を見よ」「定五郎を見習え」と大きな声でいって皆を戒めたといいます。

そんな定五郎もガンを患い、桜村の石川医院へ入院して間もなく亡くなりました。定五郎が死んで驚いたことは、思いのほかたくさんの貯金があったことです。律気な定五郎は、働いていたときの賃金、心づけの金を全部貯金していたのです。妻も子もなく身よりもない定五郎の残していったこの貯金をむだにしてなるものかと、あるじの春太郎はその使いみちを考えました。

死んだ定五郎の心根を生かすため、その金の全部をつぎこんで蒼滝橋を新しく架けることに決めました。この話を聞いた湯の山の小菅、伊藤、岡谷らのだんな衆をはじめ、そのほかの人々も志を出し合うこととなり、湯の山では最初の立派なコンクリート橋が架かりました。それは昭和八年三月のことです。生来、無口であまりしゃべることも少なかった定五郎は生国も越後あたり、年も四十五、六ぐらいであろうということで詳しいことはだれもわかりませんでした。